Sponsored Link




華やかなロマンスカーが有名な小田急は通勤車も洗練されたものが多く、
特に先日引退した9000形などはデザイン面で高い評価を受けました。
一方でそれ以前の、戦前製HB車から5000・5200形まで続いた正面貫通・
幕板に付くヘッドライト・貫通扉への行き先表示などの特徴を持つ
いわゆる“小田急顔”と呼ばれるデザインの車両たちも地味・おとなしめながらとても整った顔立ちとなっています。

元々昔の小田急電車が好みな私は自然と小田急顔車両を模型で作ることが多く、
様々なバリエーションが揃ってきたのでそれをまとめて見比べてみるのも
面白いかと思いこのようなページを書き始めました。
写真ばかりを並べても殺風景なので、実車の簡単な解説を付け加えてみたいと思います。
スペースなどの関係でかなり大雑把なので皆様既にご存知の事ばかりかもしれませんが、
旧型車をあまりご存知でない方にも楽しんでいただければ幸いです。

それでは、実車の登場時期順にご紹介していきましょう。


*1929〜1969などの数字は実車が登場した年と全廃された年を示します。また、その下に水色で書いてある数字は
横に表示されている模型の時代設定です。





1400形

1929〜1969
1958頃

小田急小田原線開通から2年後の1929年、江ノ島線が開通する際に
製造された201系(モハ201・クハ501・クハ551)が前身です。
大東急時代には改番されましたが、戦後の1951年に再度改番されデハ1400・クハ1450となりました。
戦時中〜戦後間もないころは異端車も色々いたようなのですが、
管理人の知識不足とスペースの関係で割合させていただきます。なお当初制御装置はHLで、
この1400や1200、1300などをまとめて呼ぶ際に使われる「HB」となったのは戦後のことのようです。
1954年から1956年にかけて客用扉拡幅や窓割の変更などの大規模な更新が行われましたが、
この時点ではまだ前面貫通扉の窓はHゴム化されておらず、行き先の表示もまだフックに板を引っ掛ける
方式でした。更新直後には側面扉も木製だった車両(全車かも?)があったようで、まだまだ古めかしさを
残していましたが、昭和30年代も後半になると貫通扉、行き先表示、標識灯交換やプレスドア化などなど
様々な改良が加えられ、更新直後とはだいぶ異なった雰囲気となっていました。
ちょうどその頃から大形の2600形が続々と製造されるようになり、昭和40年代に入るといよいよ
1200形などHB系列の他形式と共に順次廃車されていき、主電動機など一部部品のみを4000形に流用し
1969年には1400形は小田急線から姿を消しました。しかし1406号は営業運転中に纏う事の無かった
黄色+紺のツートンカラーに塗られ経堂で教習車として使用されていましたし、
その他新潟交通や越後交通など地方私鉄にも譲渡車があったようです。

-------------------------------------------------------------------------------------
1600形

1942〜1976
1962頃

上でご紹介した1400形などの戦前組とはまるで違う半流前面や大きな窓、そして戦後、1954年に登場する
2100形まで使われたABF形制御システムをもって登場しました。HB車などと同じように制御システムの名前で
ひとくくりにすることも多く、1600、2100のほか1900や1700をまとめてABF車と呼ぶことがあります。

デハ登場の前年には後のクハ1651〜1653となるクハ601〜603(国鉄木造客車の台枠を流用)が登場
していましたが、1600形となった後も台枠が露出した古めかしい外観はそのままで昭和33年に更新
(車体載せ替え?)されるまでその姿を見ることが出来たようです。
なお、デハは1942年に一気に10両製造されたのに対しクハは3両だけで圧倒的にデハが多かった為、
戦後の1953年、1600形を全て2両固定編成化する際に不足するクハ7両が新造されました。
こちらはデハのデザインに近いスマートな車体となっており、後に初期の3両も更新時にほぼ同じ車体に
揃えられました。ちょうどその頃、1958年からデハも含め1600形の更新がはじまり、Hゴムやアルミサッシを
多用した近代的な車体となりました。HB車と同じく、これも更新直後は末期に比べると大形パンタや行き先
表示機未設置など古めかしさを感じる外観となっていたようです。
1963頃

更新後も塗装は当時のツリカケ車標準塗装であった茶色一色塗りでしたが、1962年頃からは旧特急色である
黄色と紺のツートンカラーへの塗り替えがはじまり、通勤車標準色となりました。行き先表示機の取り付けや
パンタグラフの交換などさまざまな近代化も行われましたが、HB系列の廃車が一通り済むと次は1600形という
ことになり、1969年から翌70年にかけて廃車されました。主電動機はHB車の時と同じように4000形に流用
され、また岳南鉄道や三岐鉄道など地方私鉄へ譲渡されたものもあったようです。
このようにして大半が小田急線上から消えたのは1970年のことですが、クハ1658号だけは振子試験車へと
改造され、当時の新標準色の帯の色を流用したブルー一色塗りの車体など個性的な外観で
1976年まで残りました。この車両を最後に1600形は形式消滅した事になります。


昭和38年 大野検車区にて

・・・なんてね
1954年に登場した2200形は当時流行の正面二枚窓となり
いわゆる小田急顔とは違うデザインですが、やはり同じ鉄道会社だからでしょうか、
やはりどことなく小田急っぽさが漂います。
後の細かな改良でそれは一層増して行きます。


1800形

1946〜1981
1970頃

戦後間もない頃は物資不足などから修繕も思うように出来ず
どの会社も車両不足が深刻だった為、運輸省は当時の国鉄63型と同型の電車を当時の大東急のほか
東武や名鉄、関西私鉄などへ割り当てました。東急割り当て分は後の小田急と相鉄になる路線で
使われることになりました。一部車両の相鉄への譲渡、そして名鉄から購入で埋め合わせをするなどして
2両編成が10本、更に1950年代に入ると旧モハ42など戦災国電を修復した2両も加わりました。
この2両はほかの1800と車体形状が異なるだけでなく編成を組むデハとクハもそれぞれ違った車体と
なっていた為、形式もデハ1820、クハ1660(後に1870に改番)となっていました。
しかし1957年からの更新で全車スマートな車体に揃えられ全車がほぼ同一形状となりました。
この時正面デザインも小田急らしいものとなりましたが、しかし切り妻車体は相変わらずで
ベンチレーターなど細部部品などを見ても他の小田急電車とはまるで違う独特の存在だったようです。
その後昭和30年代後半からは他系列と同じように細部改良や塗装変更が行われ、その後も40年代半ば頃
にはライト2灯化や新塗装化、その後は4000との連結運用開始(1973年の連続脱線事故をきっかけに終了)
や方向幕の自動化などなどにかく話題の多い車両だったようです。
廃車される頃には63型車体の面影はほとんどなくなりとても近代的になりましたが、1979年からは廃車が
始まり81年までに全車が引退しています。しかし全車が秩父鉄道へと譲渡され、その後も暫く活躍しました。

-------------------------------------------------------------------------------------
1700形

1951〜1974
1969

1951年、初の特急専用車として登場した形式で、まずは3両編成2本、翌年に更に1本が製作されました。
転用のきかない特急専用車となるため、台枠は国電払い下げ品、台車や電機品も1600形のものを
転用するという慎重な方法で製作されました。両先頭車(デハ)が1900形などと同じく17m級なのに対し
中間車のサハのみが20m級という変わった編成となっていました。52年増備の第3編成は完全な新造車
として登場しましたが、車体も当時流行の前面非貫通の2枚窓、そして張り上げ屋根の採用と、初期の2編成
とはだいぶ雰囲気の違うものとなっています。
当初1600形の台車・電機品を流用した初期の2編成は後に台車などが第3編成と同じものに揃えられました。

登場から数年後の1957年には3000形SE車の登場に伴い早くも特急車の座を譲る事となり、
通勤車への格下げ改造が行われました。この改造は扉の増設(3扉化)と20m級車体だったサハの車体短縮、
新造サハの組み込みによる4連化など大変多くの箇所が変更され、一気に特急車時代の面影が薄れた感が
あります。塗装も一度当時の通勤車標準塗装であった茶色一色となりますが、昭和30年代後半には再度
イエローとブルーの二色塗りになり、茶色塗装を挟んで同じ塗装を二度経験したという面白い経歴を
持っています。同じ塗装でも一度目と二度目ではわずかに色調が異なっていたという資料もあり、
大変興味深い部分です。

格下げ直後の時点では第3編成の非貫通前面がまだ残っていましたが、1962年の更新時に他形式と同じ
ように貫通式へと改造されました。この頃から通勤車の塗装を2200形以降の高性能車にあわせ二色塗りと
することになり、 1700形も順次イエローとダークブルーへ塗り替えられました。
この後も他の形式にあわせてATS取り付けやヘッドライトの2灯化(旧塗装+2灯ライトは69年9月の1703Fで、
新塗装+1灯ライトは69年8月の1705Fで確認できましたが、ちょうど塗装変更の真っ最中であったため
これらの形態が見られた期間は非常に短かったことと思われます)などが行われ、1969年からはアイボリーに
ブルー帯の新塗装への塗装変更が始まりました。しかしこの後の活躍期間は長くはなく、1974年には全車が
廃車され、地方私鉄に譲渡されることもなく解体されました。


昭和30年代後半頃の新聞電車。
1600形のほか、ABFM車が使われたこともあったそうです。
個性派の並び。


キハ5100形

1956〜1968
1967頃

1955年、当時非電化であった国鉄御殿場線御殿場駅までの乗り入れ用にキハ5000形が2両製造され
ましたが、翌年にはシートピッチ拡大や窓割の変更などの改良が加えられたキハ5100形が登場し、
1959年には更に1両が増備されました。当初塗装は当時の特急車1700形などと同じようにイエローと
ダークブルーの二色塗りでしたが、59年増備のキハ5102はクリーム色に朱色帯という新塗装で製造され、
後に他の3両も同じ塗装に揃えられました。

その後も前面窓のHゴム化など細かな改良が加えられ使用されていましたが、1968年に御殿場線が
電化されると直通列車も電車化され、早くも引退する事となりました。
68年7月から御殿場線直通列車はSE車を8連から5連に短縮し細部を改造したSSE車へと変わりましたが、
4両のディーゼルカーはまだ車齢も若かった為、全車が関東鉄道へ譲渡され1988年まで使用されました。

-------------------------------------------------------------------------------------
2220形

1958〜1984
1970頃

1954年に軽量車体やカルダン駆動などを採用した小田急初の高性能車2200形が登場しましたが、
1955年には車体を特急仕様にした2300形、1958年には平行カルダン・貫通前面・便所設置・4両固定編成
などの仕様変更が加えられた2220形、1959年には2扉セミクロスシートの2320形が続々と製造され、
これらはまとめて2200形として扱われたりABFM車、FM車などと呼ばれることがあります。
各形式ともに時代によって多くの改造・改良が加えられ、細部の話題まで集めれば一冊本が書けそうなほど
なのでここでは2220形の紹介に絞らせていただきます。

2220形は前述の通り1958年に登場しましたが、1962年には当時増備の進んでいた2400形HE車の増結車が
不足気味であったため中間車に運転台を増設し、4両編成を半分にして2両固定編成へと改造されました。
この時増設された運転台はHE車と同型の物となっており、行き先表示機など新造時からの先頭車とは
若干異なる外観となっています。この時中間車に設けられていた便所は撤去されました。

その後は他の形式と同じようにヘッドライトの2灯化や新塗装化が進められました。

2200〜2320のFM系列各形式やHE車など中型車のほか、5000形や9000形などの大型車とも
編成を組んでいたようです。1982年から2220形を含むFM系列各形式の廃車が始まり84年には
全廃されましたが、一部は富士急行や新潟交通へ譲渡され90年代まで活躍していました。

-------------------------------------------------------------------------------------
2600形

1964〜2004
1989

1960年代前半、沿線の開発に伴い利用者が激増し輸送力増強に追われていましたが、
単位輸送力を増強するため長さ20m、幅2.9mの大型車2600形が製作されました。
最近まで活躍していた車両で詳しい実車紹介を扱っておられるサイトや資料も多いため
メカ的な部分の解説は省略し、主に外観面の変化をご紹介させていただきます。

登場時はホーム延伸がまだ完了していなかった為、デハ3両の両端にクハを連結した5両編成で
運転されていましたが、67年〜68年にかけてサハが増備され、6連化されました。塗装は当時の標準色
であるイエローとダークブルーの二色塗りでしたが、67年11月には2661Fと2662Fが小田急百貨店全館完成
を記念し白と赤の二色塗りに金色の帯を入れた祝賀色となりました。この2編成はこの塗装を纏っていた時期に
6連化が行われた為、この編成に組み込むサハのみ祝賀色で新造されました。この祝賀色は69年春頃に
新塗装化されるまで続きましたが、同時に祝賀色となった4000形4001Fは2600形より早く68年春頃に
旧標準色に戻されています。

前述の通り69年から新塗装化がはじまり、72年には2664Fを皮切りに冷房車化改造もはじまりました
(81年の2652F改造で完了。2664Fは改造当初種別幕・方向幕が白地のもののままでしたが、
後に黒地のものに交換されています。)その後スカート取り付けなど細かな改良が加えられ、
82年と83年にはそれぞれ特別塗装を纏い、その後1985年〜89年には更新工事が施されるなどして
長い間近郊区間の各停や準急の主役的存在でしたが、91年に多摩線で発生した脱線事故で
初めて2両廃車が出て、その後も92年からの一部編成の8両固定化時に余剰クハ・サハが廃車されました。
その余剰車をかき集めてVVVF制御とした編成もありましたが、2000年からはついに編成単位での廃車が
始まり2001年に8両固定編成が、2004年6月には6両固定編成も全廃され2600形は形式消滅しました。
話が前後してしまいますが、2600形6連の廃車が進み、残り1編成となった2003年秋、その最後の一本である
2670Fが登場時のイエロー+ダークブルーの旧塗装に塗り替えられ、同年10月18日に開催された鉄道展に
合わせた臨時列車に使用された後一般の営業列車にも使用され、2004年6月5日にはさよなら運転とイベントも
開催されました。このイベントを最後に引退しましたが、車両自体は解体されずに現在も海老名電車基地の
片隅に留置されており、今後の処遇が注目されます。

-------------------------------------------------------------------------------------
5000形

1969〜
1969頃

1960年代後半、2600形と4000形の増備に伴い各停の大型化が進みましたが、一方で急行や準急などは
依然としてHE車やFM系列など中型車中心となっていたため、これらを大型車化するために2600形とほぼ
同一の大形車体とHE車のものとほぼ同一の電機品という組み合わせの5000形が製作されました。
全編成が製造当初から新塗装を纏っていましたが、まだスカートや冷房装置も設置されていなかった為
だいぶすっきりした外観です。
69年に4両編成4本、70年にも同じ数が増備され、続けて71年にも同様に4本が増備されましたが、
71年度製造分は小田急通勤車では初の量産冷房車となっており、以後の増備車は6両固定編成(5200形)も
含め全て新造時から冷房付きとなっています。この新造冷房車が登場した71年には早くも非冷房で登場した
初期の8編成の冷房搭載改造が行われ、翌72年までに全8編成の冷房車化が完了しています。70年代には
無線アンテナやスカートの取り付け、一部編成の方向幕自動化(黒地の幕に)などの改良が加えられました。9000形増備の為一旦5000形の製造は中断されていましたが、76年から再開され同年に2編成(手すりや側面
種別表示機など幾つか改良点があります)、翌77年に1編成が製造され4両固定編成の増備は
ここで終了し合計15編成60両となりました。この年から6両固定編成の増備が始まりましたが、
こちらは5200形などと呼ばれ別形式のように扱われることも少なくない為、これについては省略させて
いただきます。

1990年から更新工事が始まり、98年までに全編成の更新が完了しています。
その後も種別幕や方向幕の交換など細かな改良が続き、2006年4月現在全車健在ですが、
9000形が引退した現在、次の廃車候補である可能性は低くないものと思われます。




いかがだったでしょうか。現在ではこの正面デザインを残す電車は5000・5200形のみとなってしまい、
一時期は小田急通勤車の大半を占めた「小田急顔」電車も徐々に影が薄くなってきています。
廃車が進んでから慌てぬよう、今の内に出来る限り記録しておきたいものです。


工作室TOP